秦始皇帝

 秦始皇帝(紀元前259年ー紀元前210年)は中国の歴史上での最初の封建王朝――秦代のはじめの皇帝であり、また秦始皇帝とも称されている。始皇帝は姓が 嬴、名が政であり、趙国で生まれたので、趙政とも呼ばれる。13歳で即位し、紀元前230年から紀元前229年の間、嬴政は「遠交近攻、外敵離間」の策略を取り、十 年をかけて韓、趙、燕、魏、楚、斉を次々と撃破し、500年にわたる戦乱の時代に終止符を打ち、中国ではじめての多民族の中央集権の君主統治国家――秦国を打 ちたて、皇帝と名乗り、咸陽に都を定めた。

 秦朝が建てられた後、始皇帝は政治、経済と文化、思想などの方面で一連の改革施策を実施し、中国の統一と発展に対して巨大な作用を果たせた。政治面に対し ては、始皇帝は帝王の称号を変え、「皇帝」の尊称を創立し、更に皇帝は「朕」と自称し、皇帝の命令は「制」、「詔」と称することになった。中央政治体制も改革し、皇帝 は政治、軍事の最高権力を掌握し、下には「三公九卿」を設け、全国の統一した法律を制定して公布施行する。経済の面では、農業を重視すると伴って商業を抑圧す る政策を推進し、農業生産で官吏の功績を評価するなど農業重視策に含め、国家の収入を増加するため、荒地を開墾することや土地の私有制を断行するという政策も 実施した。文化の面では、秦国で使用した文字を基礎にして小篆を制定し、全国で公布施行し、「書同文一文字の規範化」を始めさせた。始皇帝はまたもとは混乱して いた度量衡と貨幣を統一した。そして、始皇帝は広範囲の交通網建設を行い、紀元前229年をはじめ、首都の咸陽を中心として四方八方へ伸ばす道路を大規模に建 設する。車輌の轍は道路の軌道と同じようにして広さ五十歩にすることとなっていた。

 始皇帝が執政者であった時に国家の領土も拡大した。蒙てん将軍は匈奴を討ち、屠睢(とすい)は越を征服したことをシンボルとなり、秦朝の境域は非常に拡大した。 北は長城と陰山から、南は今の嶺南地区まで、西は隴西から、東は遼河の東部までにいった。「南海郡」、「桂林郡」、「象郡」、「桂林郡」を設置し、嶺南を 管理した。

 始皇帝はさらに民衆の思想を統一させ、秦朝の統治を強固させるために、李斯の提案した焚書坑儒という事件を起こした。北方の遊牧民族の侵入を防ぎ止めるため に万里の長城を築いた。始皇帝は執政した間、過酷な法律と刑罰、重税を搾取し、大土木工事を頻繁に行い、人民に深大な災難をもたらした。

 昔から、始皇帝は論争の対象である。肯定者は始皇帝が始めて中国を統一した「千古の帝」であると評価するのに対し、否定者は彼が残酷で独裁の暴君だと主張する。