歴史沿革
咸陽市は中国歴史上初めての統一多民族中央集権制封建王朝(秦王朝)が都を定めたところです。秦王朝の領土は長武が北地郡に属する以外は、大部分が内史(首都および近辺を管轄する官吏)が管轄する地域内にあります。
西漢では、関中は三つの行政区(郡に相当する)に分かれていました。今の咸陽市の西部が右扶風郡、東北部の礼泉、淳化、涇陽、三原が左馮翊、長武が北地郡、旬邑が上郡に属します。東漢では、現秦都区、渭城区の西南部が京兆尹、長武が安定郡、彬県、長武、楊凌が新平郡に属しました。隋代には、現咸陽の大部分が京昭郡、旬邑、彬県が北地郡、長武が安定郡に属します。唐代には、永寿、旬邑、彬県、長武が彬州に属します。宋の時期、永寿、旬邑、彬县、长武が永興軍路、西部が乾州(後に礼州と改める)、秦都、興平、涇陽の南部が京兆府、淳化、旬邑、彬県、長武が彬州、三原、涇陽の北部が耀州、長武の西部が涇州に属します。元代、市は奉元路と鞏昌路の交わるところにあって、永寿、乾県、武功、礼泉が奉元路の乾州、三原が奉元路の耀州、秦都、渭城、興平、涇陽直が奉元路、淳化、彬県、旬邑、長武の東部が鞏昌路の彬州(後、鳳翔路と改める)、長武の西部が鞏昌路の涇州(後、平凉府と改める)に属していました。明代、咸陽は西安府に属し、そのうち長武、旬邑、彬県、淳化が西安府の彬州、永寿、乾県、武功、楊凌が西安府の乾州に属し、ほかの各県が西安府に直属していました。清代、両乾道に属し、秦都、渭城、涇陽、興平、礼泉が両乾道の西安府、乾県、永寿、武功、楊凌が西安府(後、乾富道下の彬州直隶州と改める)、彬県、淳化、旬邑、長武も西安府(後、乾富道下の彬州直隶州と改める)に属していました。
民国では、乾県、彬県、旬邑が関中道に属し、ほかの各県はそれまでと同じです。解放後、関中が取り消され、三つの分区がともに属する陝甘寧辺区政府を建て、秦都、渭城、興平、武功が咸陽分区、涇陽、三原、淳化が三原分区、彬県、長武、旬邑、永寿、乾県、礼泉が彬県分区に属しました。1950年、陝西省人民政府が成立し、現秦都区、渭城区、興平、三原、涇陽、淳化、礼泉、旬邑が咸陽専区に属し、そのほかは宝鶏専区に属しました。1953年、咸陽専区が取り消され、咸陽市県が陝西省に直属し、三原、涇陽が渭南専区に合併され、そのほかの地区が宝鶏専区に属しました。1956年専区が取り消されて省府に直属します。1958年から1960年まで大県を合併して、市境は咸陽市、興平県、三原県、彬県、乾県に分かれました。1961年に咸陽専区と各県を回復して、またいくつかの県(旬邑、礼泉、彬県など)が改名しました。1983年、専区が咸陽市、原咸陽市が秦都区と改められて、戸県、周至、高陵が西安市に合併され、武功、楊凌と扶風五泉郷が宝鶏専区から咸陽市に合併されました。1986年に秦都区は秦都、渭城の二つの県級区に分かれました。
1997年7月、国務院が楊凌農業高新技術産業示範区を建てること決定したため、示範区管委会が省政府直属派出機構になって、地市級行政管理権、省級経済管理権と部分省級行政管理権などの権利を所有して、咸陽市に属さなくなりました。現在、咸陽市は1市(興平市)2区(秦都、渭城)、10県(三原、涇陽、乾県、礼泉、永寿、彬県、長武、旬邑、淳化、武功)を管轄しています。
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